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目次に戻ります。南アフリカ!な、何のお話?

南アフリカの若者たち
[未来を信じて]
副題:南アフリカの声
外で物音がすると思った瞬間、バーンという大きな音がして、警官たちが家のなかになだれこんでくる。そして、ベッドにいるぼくたちの胸ぐらをつかんでゆさぶってこういうんだ。「おきろ、黒んぼ!つらをよく見せろ!」やつらは大きな懐中電灯で顔を照らす。銃を向けたまま。それから家中をひっくりかえして、すみからすみまで調べ上げる。

彼らの生活は1946年のアパルトヘイト政策からひどく歪められました。
[未来を信じて]
アパルトヘイトはちがった人種の人間同士がまじわることは不道徳であるという信念のもとに築かれた政策で、そのため、ちがう人種のもの同士は、離れて暮らすように命じました。そして、黒人と白人の結婚を法律で禁じ、カラードとインド人はおなじ地域には住めなくしました。さらに、白人とインド人の子どもはおなじ教室にいられなくなりました。

1950年にアパルトヘイトの基礎となる法律が制定されました。集団地域法というこの法律は・・・黒人、インド人、カラードたちは、隔離された「タウンシップ」に住むということを強制するというものでした。・・・政府は結局、・・・生活に必要なあらゆる公共サービスをおこなわないという政策を選びました。その結果、トタンで作った無数の掘っ立て小屋が、地面を掘っただけの下水溝や、舗装されてない道路のまわりに立ちならぶことになったのです。

・・・1913年に制定された原住民土地法は、・・・耕作に適した土地のうち93%を白人の所有地として認め、・・・黒人には、人口の密集した乾いた土地の私有しか認めませんでした。その結果、多くの黒人は白人の農場で働かざるを得なくなり、雇用主である白人のりっぱな屋敷の片隅にある小さな小屋を住まいとしました。

カラードとは、移住してきたヨーロッパ人と先住アフリカ人との間に出来た人間たちの事です。第二次世界大戦以降・・・この国は時代に逆行して突き進んで来たといえますね。少なくとも日本の進んだ道とは逆です。
確かに1946年からの政策がこのような生活に繋がってはいますが、もともとは1652年のオランダ人の移住から尾を引いているものと思われます。そのすぐ後にフランス人もドイツ人もやってきて独自の文化も育ち、彼らは「アフリカーナー」と呼ばれるようになります。先住民を踏みにじって無理矢理新しい歴史を出発させようとした西欧の傲慢さ・・・・ですね。

[未来を信じて]
アフリカーナーたちは、新しい土地を発見したわけではありません。・・・アフリカーナーたちは先住民たちを奴隷のように働かせたり、土地から追いはらったりして、その生活を破壊し、自分たちの優位を保ちました。さらに、現在のマレーシア、インドネシア、スリランカやマダガスカルから大量の奴隷を輸入しました。・・そして先住アフリカ人や奴隷に勝手に集落を作って住むことを禁じました。

奴隷とはつまり、人件費の掛からない労働力の事です。
現代の経営者は、常にコストダウンに努め、商品の競争力を高めなければいけません。そのためには人件費を安く見積もる事が最も手っ取り早い方法といえます。日本でも、最近では奴隷ではないですが、人件費を押さえる為にフィリピン人、ブラジル人を使う企業が増えました。彼ら外国人はお金欲しさに出稼ぎにやってくるので自主的な面、強制的な奴隷とは全く違います。給料も悪くはないです・・・しかし南アフリカでは儲ける為には誰かを犠牲にしていた・・・そして自分と同じ人間として扱わないで奴隷として扱い・・・・自分を優位に保っていた・・・・・・・・・
[未来を信じて]
1795年にイギリスがオランダからケープタウンの統治権をうばい・・・1834年には、イギリスが植民地での奴隷制を禁止し、賃金のいらない労働力にたよっていたアフリカーナーを激怒させ・・・統治をのがれようと、たくさんのアフリカーナーが牛にひかせた荷車に乗って、先に発見したものが自分の土地にできる東部へと旅立っていきました。・・・アフリカーナーと先住アフリカ人たちのあいだで、土地をめぐる争いが絶えませんでした。しかし、激しい抵抗も、アフリカーナーの持つ近代兵器にはかなわず、やがて先住アフリカ人たちはうちのめされてしまいます・・・

しかし、イギリス人たちもサトウキビ畑で働かせる年季奉公人という奴隷とは違う言葉での強制労働のために、インドから沢山の人々を送ります。(言葉は違いますがやはり奴隷と余り変わらないでしょうね) そして86%のカラードや、インド人、そして先住民のアフリカ黒人を、僅か14%のオランダ、フランス、ドイツ人やイギリス人移住者が支配し続けたのです。

[未来を信じて]
1948年、アフリカーナが率いる国民党は政権をにぎると、少数の白人の権力をさらに強めるために、アパルトヘイト政策をとったのです。・・・1976年6月16日、・・・政府が黒人の学校での公用語として白人がつかう英語ではなく、アフリカース語を強制しようとしたことに怒った学生たちは、行進を組織し・・・警察が築いたバリケートに学生が達したとき、警官は銃弾を放ち、多くの学生が犠牲となりました。

胸ぐらをつかまれた少年の名は、バンディーレ・マシニーニといい、その彼のお兄さんがツィツィといいますが、そのお兄さんがこの行進の中心的メンバーでした。そのために、国外に亡命します。しかし、その行進の影響は南アフリカ中に広がり1977年の10月までに700人の黒人が命を落としました。そのうち90%は23歳以下の若者でした・・・そして2万人が亡命者となります。

[未来を信じて]
「さあ、おきろ!マンデラのTシャツを着たテロリストどもを車に放り込め!」そして、家族をみんな刑務所につれていって、一晩中尋問さ。・・・母さんが逮捕されたまま七ヶ月も独房に閉じ込められていたこともあった。亡命中の兄のひとりが母さんと連絡をとろうとして、それが警察に見つかったからなんだ。罪状はテロリストを助け、逃亡を手伝ったというものだった。・・・ふたりの兄は1990年代のはじめに故郷に帰ってきた。でもツェツェは結局帰ってくることはなかった。1990年、亡命中にギニアで死んでしまったんだ。・・・ノイローゼが原因で自殺したのはではないかというのがひとつの説だ。・・・でも死んだときには顔中にあざだらけで、できたばかりの深い傷もあったことがわかっている。・・・

ツェツェの弟のバンディーレは兄ツェツェの墓によく行く・・・・と、本に掲載された白黒写真に説明されています。記念碑も一緒に建てられて、「JUNE 16.1976 MOVEMENT」と記されています。右の柱には「BLACK」左の柱には「POWER」とあります。誇らしい墓碑ですね・・・・

長く虐げられてきたアフリカ黒人です。特に南アフリカ人の近年における歴史は、アフリカ全体の奴隷時代がいかに残酷であったかがよくわかる資料となるでしょう。言葉を奪い新しい言葉を強制しようとした矢先のデモ・・・。日本人もまた、朝鮮半島に対して同じ様な事を日韓併合時代(1910年〜1945年)に行いました。その怨念がいまだに続き、その事を忘れて北朝鮮の日本人拉致の罪を追及しようと日本人は必死です。アフリカでのアパルトヘイト・・・ナンセンス!なんて、とぼけたことは言えないはずですが。しかし、力の歴史・・・終焉を経て新しい民主主義の時代(1994年4月史上初めて黒人大統領ネルソン・マンデラが誕生し、世界が南アフリカを祝福)がやってきたわけですが、今南アフリカはどのような状態なのでしょうか・・・。この書は若者にインタビューをし貴重な意見を聞くことに成功しています。
題名:「未来を信じて」
(副題 南アフリカの声)
著者:ティム・マッキー
(文、インタビュー)
初版:2002年9月19日
発行所:小峰書店
02.12.20


次は「22」です
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