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40歳の死(Tinga tinga)
エドワード・サイディ・ティンガティンガがダルエスサラームのムササニ・ミコロショニ墓地で眠り始めた年齢です。

彼の年齢に今私はあります・・・・
40歳というのは重い年齢です。60歳の方から見ればまだまだ若造ですが、20歳の青年からすれば随分な年齢です。本人からすれば、体力と気力が切れ初めて、燃料を充填せねばならない・・・・そう考える折り返し地点です・・・・あるお方は「40にして迷わず・・・」とおっしゃられました。いずれにしても、これからが私の人生だ・・・という時期ではないでしょうか?

しかし、彼は妻と二人の子をこの世に残して死んで行きました。1972年にダルエスサラームのサモラ通りでフォロクスワーゲン・ビートルの中にいた時に、盗難車と勘違いした警官の発砲したピストルにより死んで行ったのです・・・・・・
その時に運転していたダウディは無免許であった為にまたスピードを出し逃げたという、誤解から発生した不慮の事故死だったのです。ダウディとテドはうまく弾を回避したのに、ティンガティンガはそれをかわせなかったのです。
ティンガティンガ作
彼が奥さんのアガサ・マタカと正式に結婚したのは1970年ですから、わずか2年足らずの後の事でした。彼の住居はムササニ・ミコロショニにありました。与党の政治的な一派であるタヌ・ユース連盟に所属していた彼は、そこの紹介でムヒンビリ・メディカルセンターで仕事を持つことが出来ました。すでに1968年の初めに2フィートかけ2フィートのハードボードにペンキで絵を描き始めていた彼は、その間、描き続けていました。そして、彼の絵は奥さんにより、オイスターベイのモロゴロ店で売られていたのです。

そうしているうちに、ティンガティンガの絵はある観光客の手によって芸術関連の会社に紹介され、本格的に絵を描く事により生活出来るようになりやがて、メディカルセンターの仕事を終了するに至ったわけです。

彼が生れたのは1932年でツンドゥル地区のルブマ地域ナカパニャ村でした。父はサイディでイスラム教徒、母はアグネスでクリスチャン・・・貧しい農家で4人の子供たちの中では長男でした。そのような状況では学費に力も入らずに、仕事を探すために1957年には村を去る事になったのです。

そうして、プランテーションで働き始め、そして次には庭師、果物や野菜を売る売り子などに従事して行きました。そんな中でも芸術的な才能を開花させる想像力を開墾させる仕事もかたわらで始めていました。それは、枕カバーやテーブルクロス、ベットカバーの刺繍の仕事がそれです。幾つかの家の壁には伝統的手法などを使い、そこにも創造的な才能を開拓することも行われたりもしました。
その様な中で・・・正方形のハードボード絵画が誕生したのです。
ティンガティンガ村で売られている丸椅子
丸椅子にもティンガティンガが描かれている
02.2.18
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