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ニエレレのウジャマー政策の失敗
ニエレレ大統領の政策は農業に重点を置いたものであったために、気がつくと日用雑貨品がタンザニアからなくなり極端なインフレに見舞われます。しかし、そんな失敗を認めて政策転換を図ったところも評価されてもいます。失敗ばかりでもなく、かたわらでは義務教育を定着させたり、保健所、病院、水道設備を整え保健衛生面で成果をあげてもいます。

アフリカでは1960年代末には、「完全な経済的自立を目指す運動」が高まっており・・・そのなかでも先駆的な役割を果したのが、タンザニアのニエレレ大統領のアルーシャ宣言(1967年)であります。この宣言は政治と経済の双方についての声明であり、人間的平等を実現させる方法として・・・タンザニア社会主義を訴えるものでもありました。(ウジャマー演説=1962年)

特徴はタンザニアが農業国であるという認識を出発点とする自助精神に基づき、あらゆる資源を活用し、農村開発に力を注ぎ、所得格差の拡大傾向(独立後も是正されていないなかった)を阻止するものでした。それは伝統的精神を生かし(ウジャマー精神)自発的な協同組織を形成し、集団農場的な生産体制を普及させるものです。そのために九つの外国銀行の国有化、保険会社、貿易会社・・・1967年末には工業生産品の50%を国有化・・・農村ではウジャマー村を全国に設置して行きました。

東アフリカ独立諸国が経済的困難を克服する為の、外国支配の経済構造を打破する最初の試みでした。それらはザンビアの「ムルングシ宣言(1968年)」、ウガンダの「庶民憲章(1969年)」、ソマリアの新政権の社会主義国有化(1969年)などに影響を与えていきました。

しかし、資本主義的発展をきらった政策は、1972年に総人口の15%の198万人がウジャマー村の村民となっていましたが、1974年には銃による強制的移動で67%の910万人が村民になったもののうまくはいきませんでした。しかも、それらは貧しい南部を中心とした建設であり、北部の農民たちは資本主義的農法により比較的豊かな生活を私的意識の中で生活しつづけ成功していたのです。
結局、1980年代に入るとタンザニアの経済は国際収支の悪化に伴う経済危機に陥り、農業生産が低下し、高いインフレになり政治状況は、官僚化、右傾化が進みます。(何処に行っても生活必需品が手に入らない状況でした。農業に力を入れてばかりでしたから)そして1985年にニエレレ大統領は引退し1990年代には、なかばウジャマー政策を放棄したような時代になるのです。ウジャマー村が耕地を開墾しても収穫までには期間がかかり、その補償を出来ない政府に批判が出たのも、銃による強制移動と同じ政策失敗の一要因であったのでしょう。

次第に、資本主義経済に傾倒しはじめ、まず国民の空腹を満たし、経済重視の路線を進み始めたのは、賢い選択ではなかったでしょうか?・・・・それでタンザニア日本大使も経済大国に発展した日本の援助をそうとう叫んでおられるわけです。思想よりもまず、経済的ゆとり・・・国民が本当に求めているものは、豊かさであり、自由な競争や将来の夢や希望・・ではないかと。・・・・また、極端な理想主義も考えものです。怨念があるとどうしても社会主義思想に人間は、はまりやすいって事でしょうか?奴隷時代がひどすぎたのでしょう。やっぱり人類には愛が必要ですね〜。

ダルエスを走るダラダラ(小型マイクロバス)・・・・・・鴻池が整備したアスファルトの上を乗客を目一杯に積載して走る姿は、なんて活き々していた事でしょうか?今日もきっと、日本の何処かの幼稚園ネームが入ったダラダラが「ブーブー」とクラクションを鳴らしながら走っている事でしょう。
※ウジャマーとは、友愛、家族愛に相当するスワヒリ語です。



参考資料:「アフリカの歴史(岡倉登志)」より 
02.3.11



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母子感染で増える悲しみ・・
21世紀のアフリカが解決をせまられている緊急な医療問題・・・それはエイズであろう。

最近では特にHIV感染者の母親から新生児への感染が大きな問題となっている。その大きな感染経路は母乳である。
そこで粉ミルクによる人口授乳がHIV感染防止方法の一つとして注目され始めている。

・・・・・・HIV感染者である彼女は1999年、ラトシアちゃんを出産した。幸いな事に出生児のラトシアちゃんは陰性だった。病院の看護婦は、もし彼女が母乳による授乳を続ければ、ラトシアちゃんにも感染する危険性があるとスコビアさんに警告した。しかし彼女は退院後、高価な粉ミルクを購入する経済的余裕はなく、母乳を与えつづけるしかなかった。11ヵ月後、ラトシアちゃんは陽性に成っている事が判明した。

世界で170万人と推計される乳幼児のHIV感染者のうち、110万人はラトシアちゃんの場合と同じような母乳による感染者であるという。(感染者の大部分はアフリカ人である)

しかし、児童の権利を擁護する国連機関の一つのユニセフと粉ミルク産業界は犬猿の仲にある。
・・・・・1970年代にさかのぼる。
粉ミルク産業者たちは、粉ミルクで育つまるまる太った赤ちゃんの写真入りのポスター広告を第3世界の各地に氾濫させ、全ての産院に粉ミルクのサンプルを無料で配布して、第3世界の母親たちの関心を惹きつけようとした。そうして、無料配布が終わっても人口授乳に依存するようになった。しかし、十分な量の粉ミルクを購入する経済的余裕をもつ母親は少ない為に・・・一缶の粉ミルクを少しでも長く持たせるために、薄めにする傾向が生じて、栄養失調を続出させたのだ。

人権活動家たちは、粉ミルク(ネスレー)の世界的不買運動を組織した。その時以来、ユニセフは「地雷やタバコの製造業者同様に、粉ミルクの製造業者からの寄付は、一切拒否するようになった。」・・・・・・その後、粉ミルク産業は営業政策の改善をなし、1980年には、ユニセフとWHOと粉ミルク主要企業は倫理綱領を策定した。しかし、綱領の解釈と運用をめぐり、お互いの対立は解消していない。

戦後の「日本の憲法」について・・・だけが日本で解釈と運用とで言い争いつづけているのかと思っていましたが・・・・世界にも同じような問題があるんですね〜。それにしても、お金か命か・・・命かお金か?・・・どちらも大切なんですよねー。また、誇りについても難しい問題ですが・・・プライドがないと駄目な時もありますし、あるとうまく行かない時もあります。馬鹿に成れる人格がやっぱり必要ですねー。
参考資料:月間雑誌「AFRICA」(2001.vol.41)より
HP「AFRICA 
他:「ジャンヌ・アフリック誌」(2102〜2103合併号)
02.3.3



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ザンジバルでの粛清・・・
ザンジバルの歴史を見れば8〜9世紀頃から、ペルシャ湾からイスラム教徒のペルシャ人(シラジ)が多数移住して来ます。そして15世紀末までにシラジの独立スルタン王朝が出来きるのですが16世紀にはポルトガルが進出し200年間ザンジバルを支配します。その後はポルトガルを駆逐したオーマンのサイドド(マスカト=オーマンのサイドド・ビン・サイドド)が王となり、1890年にはイギリスの保護領となります。

独立を求めていたザンジバルの中ではオーマン出身のアラブ人や大陸出身のアフリカ人が様々な思いを巡らしていました。イギリスからの独立はスルタン王朝の権力復活を意味し、同時に奴隷制の悪夢の復活をも意味していました。そのような社会構造から未知への希望を託すはめになるのは、つまり社会主義思想に傾倒していったのは当然だったかも知れません。

1963年の7月の選挙でようやくザンジバルは英国から独立し、スルタン王を戴く立憲君主国家ザンジバルが出現しました。しかし独立にいたるまでの4回の選挙で5割前後の得票率を得ながらも、少数派の連立により民族運動の主権を握れなかったもの達の不満は革命への道を進むようになります。

1964年1月11日深夜、野戦将軍ジョン・オケロ(ウガンダ出身の労働者)による武装反乱が起こり、スルタン王らはシャンガーニの海岸からヨットで逃げます。ストーン・タウン各所でインド人やアラブ人商店が略奪され、三日間で約12000人が殺され、20000人以上が逮捕されました。蜂起から一週間後の1月18日にザンジバル人民共和国が宣言され、カルメが大統領に就任しアフロ・シラジ党の一党支配が宣告されるのです。

三月には私企業の国有化が発表され、社会主義的な政策がとられていきます。そして革命から10日後には大陸にも飛び火し、タンガニーカの軍隊が待遇改善を求めて武装反乱を起こし、つづいてウガンダの軍隊、ケニアの軍隊も。独立間もない東アフリカ諸国の指導者達は驚愕します。(それぞれの独立年はタンガニーカが1961年、ウガンダは1962年、ケニアは1964年)タンガニーカのニエレレは首都の欧米大使館に逃れます。・・・・

一方、米国は「インド洋のキューバ(=ザンジバル)」が出来上がる前に、大陸側との合併で革命の影響力と社会主義の波及を削ごうとします。ザンジバルはインド洋西部のみならず、大陸の奥深くまで、昔から影響力を持っていた事を米国はよく知っていたからです。イギリスに代わって、この地域に影響力を持ちたいと願う米国にとってザンジバルとタンガニーカと連動させ、その主導権を握れるのは一石二鳥の目論みだったのです。

ザンジバル革命から3ヵ月後の4月23日に合併が発表され(正式には10月29日に、タンザニア連合共和国が発足)ザンジバルは内政自治権を持ち、ザンジバルの大統領はタンザニア連合共和国の第一副大統領を兼任する事になり、カルメがその地位につきます。

しかしザンジバルではそのカルメが支配権を握り、恐怖政治が始まったのです。反対派の人間が次々に粛清されていきます。そしてこれらの話をしてくれたモハメッド・バブーの父親も反革命陰謀罪で「処刑」され、叔父も反革命派として殺された事を英国で知らされます。彼は二年後に島へ帰り「ザンジバルは異様だった。夜の八時には通りという通りに人ひとりもいなかった。誰も恐怖で歩けなかった」と言ってます。一世紀以上、島の君主だったスルタン一族は、英国に亡命し、島の経済を握っていたインド人やアラブ人たちも外国へ逃れます。・・・・その後カルメは1972年に暗殺されます。犯人はカルメによって処刑された父親を持つ息子による復讐でした。

ザンジバルは革命の成果をアピールする為に、ブワワニ・ホテル建設、貨客船の造船、高層アパート建築、アフリカで初めてのカラーテレビ放送・・・などを手がけていきます・・・・

非常に難解な文章である為に、凡人である私にも分かりやすく修正したつもりですが・・・なお、難しく感じなくも無いですね。^_^;それでも少しはザンジバルをご理解いただけたでしょうか?いかがでしょう・・・・「わからない!」やっぱり??(^^ゞ
参考資料:「ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)」より 
02.2.27



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ザンジバル?ザンジバルとは?
ザンジバル産物のなかで、最も重要なのがクローブであり、それに劣らず大事な産物がココ椰子である。ペンバ島とザンジバル島には総計約500万本のココ椰子の樹木があるという。

とくに熱帯性常緑高木チョウジノキの花のつぼみを乾燥させた香料であるクローブはザンジバルが世界の生産量の8割を占める特産物である。このクローブがザンジバルを支配したスルタン王朝の経済的基盤となった。

だがカネになる木が昔からザンジバルにあったわけではなかった。原産はモルッカ諸島で、そのクローブ交易を独占したオランダ東インド会社は当時、1000%もの利益をあげていたという。それをアラブ商人がモルッカ原産の種木をザンジバルに持ち込んだ。・・・ザンジバル島とペンバ島でプランテーション栽培し、独占的な地位を握ったのである。これが今日までザンジバルの経済を支えてきた最重要資源なのである。・・・・・

ザンジバルは、隣のペンバ島と30ほどの小島からなり、ペンバ島が21万人、ザンジバル島が27万人、全人口が1978年の時点で約48万人である。そしてタンザニア連合共和国の行政区域がザンジバルである・・・・・

スワヒリ語でザンジバル島の事を「ウングージャ」?・・・・あんまり私とは関係ないと思っていましたが、いったんザンジバルへ観光で行くと「ウ」とか「ン」とかがやたらと会話の中に出てきます。果物でも樹木になっているものには名前の頭に「ン」をつけますが、もぎ取ると「ン」は付けないのです。それでこの「ン」の発音も微妙なので随分案内をして下さったジンゴさんに矯正して頂きました。・・・・その節はどうもでした。大変よい勉強になりました、ありがとうございました。ジンゴさんは私のスワヒリ語の先生ですね。(「人語」と憶えると忘れにくいですね。^_^;)

んなものですから、ウングージャという名称は、私には聞き捨て成らないものなのです。・・・ここではお米が主食で島の人たちはタコやイカも食べるそうです。日本みたいですねー。




参考資料:「ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)」より 
02.2.25


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